皆応寺について|上野・浅草で400年以上の歴史を誇る、稲荷町駅近の浄土真宗寺院皆応寺です。

皆応寺について

皆応寺について

皆応寺について

山号をせん円山えんざんと称し、祐念ゆうねん法師により、げん元年(1615年)、下谷黒鍬くろくわ町(現在の台東区北上野)に開創されました。
以来三度の移転を経て、幕末の安政年間(1854~1860年)現在の地に落ち着いております。

ご本尊に阿弥陀如来を崇め、東京浅草の東本願寺を本山に頂いております。

現在の住職の血筋は、14世かんみょう法師に始まります。法師は明治6年(1873年)近くのにゅうらく寺(現世田谷区北烏山)より入寺しますが、42歳で没してしまいます。
この皆応寺を興隆させたのはその長男藤井よしでした。明治29年(1896年)19歳で15世住職となると、東本願寺の浅草別院を中心にして活躍し、晩年には別院の補番(副輪番)を勤めます。
また師の人柄を慕って、檀信徒もその数を増してゆきました。けれども一方ではこの時期大きな困難に直面します。大正12年(1923年)の関東大震災で火災を受け、一旦は復興したものの、昭和20年(1945年)の東京大空襲で米軍の空襲をうけて、山門と塀だけを残し全焼してしまいます。

その後昭和38年(1963年)16世住職藤井いち(義雄の弟)の時に本堂が鉄筋コンクリートで再建され、また昭和62年(1987年)には、現住職藤井哲雄(義一の孫)のもとで、客殿が鉄筋コンクリート4階建てで完成して、今日に至っています。

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略歴

元和元年(1615年) 釈祐念法師、皆応寺を開創する。
安政年中(1854~1860年) 浅草の現在地に移転する。
大正12年(1923年) 関東大震災により堂宇全焼する。
大正15年(1926年) 十五世住職義雄、本堂を再建する。
昭和20年(1945年) 東京大空襲にて堂宇全焼する。
昭和38年(1963年) 十六世住職義一、本堂(鉄筋コンクリート)を再建する。
昭和39年(1964年) 親鸞聖人七百回御遠忌を勤める。
昭和58年(1983年) 真宗大谷派を離脱し、現東本願寺派へ所属を改める。
昭和62年(1987年) 客殿・庫裡(鉄筋コンクリート)を再建する。
平成23年(2011年) 親鸞聖人七百五十回御遠忌・皆応寺開創四百年記念法要。

浄土真宗について

浄土真宗について

浄土真宗は鎌倉時代初めに、親鸞聖人がおこされた仏教の宗派です。

この宗派が誕生したのは、人間が生まれながらに煩悩ぼんのうと呼ばれる悩み苦しみからまぬがれられないことを、聖人が深く洞察されたことに由来します、いかなる修行によっても解決が不可能な中、法然上人との出会いを通して唯一の救いの道に目覚められました。
すなわち、自分の力によらず、どんな人間でも無条件に救って下さる阿弥陀如来にすべてをお任せし、その救いへの感謝の気持を、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えてささげる道でございます。これによって人として生まれ、生きてゆく本当の意味が知られてまいります。

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「親鸞聖人とは」

親鸞聖人は、平安時代末の承安じょうあん3年(1173年)に誕生し、鎌倉時代中期のこうちょう2年(1262年)に没した、浄土真宗の宗祖です。

名門藤原家の流れを汲む日野家に生まれ、比叡山で20年にも及ぶ修行を重ねながら、民衆のための救いを求めて山を下り、法然上人の弟子となられました。 ところが、法然上人の教団は旧来の仏教教団から弾圧を受け、親鸞聖人も遠く越後えちごのくに(新潟県)へ流罪に遭われます。
けれども聖人は、それを返って逆縁とされ、多くの民衆を救う道を開いてゆかれました。
すなわち、関東へ赴いて武士を始めとする土地の人々に、20年にも渡って直接布教をされ、また晩年には京都へ戻られて、『きょうぎょう信証しんしょう』や『さんじょうさん』を始めとする多数の著作を手がけられました。
こうして後世の人々に、それまで無かったような深い教えの道が残されたのであります。

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